営業からIT部門長へ,キャリアヒストリー
みなさん、初めまして。資生堂インタラクティブビューティー(以下SIB)の木村です。昨年夏までは、IT本部長という役職を拝命し、その名のとおりITの責任者を担当しておりました。総合職として㈱資生堂に入社し、営業から社会人のキャリアをスタートしました。学生時代の専攻はドイツ文学。情報系どころか理系の素養もない自分が、ITの責任者をやるなんて当時は夢にも思っていませんでした。
現在、SIBでは様々なバックグラウンドを持つ方が活躍しています。ステップアップして上の役職を目指すだけがキャリア形成ではないですが、これまでの自分のヒストリーを振り返ってお話ししたいと思います。少しでも何か感じてもらうことがあれば、恥を忍んで書いた甲斐もありますので、本投稿にお付き合い頂けたらと思います。
営業としての社会人人生スタート
慣れ親しんだ土地から札幌へ
入社当時、資生堂の総合職は、原則として親元や大学などの慣れ親しんだ土地を離れ、地方の事業所に営業職として赴任し、数年の営業現場を経験したのちに専門性のある業務に着任するという制度がありました。自分は文学専攻で、社会で役立つスキルや経験は全くありませんでしたが、体育会アイスホッケー部の経験があることから、寒冷地仕様の体力要員と人事部に認識されてしまい、札幌に赴任することになりました。(後で人事部に聞きました・・)
3年半の札幌での営業経験だけで紙面を割いても本論から遠ざかってしまいますので、思い切って割愛しますが、ITとの出会いはこの時代に遡ります。赴任した年の1995年はWindows95という歴史的なOSが発売された年になるのですが、当時の先輩営業がPCを駆使し、売上集計や提案書作成など、大幅に作業効率を上げているのを見て、入社3年目の冬のボーナスで初めてノートPC(VAIO!)を購入しました。ただ、この時もまだ、自分がITの世界に行くとは思っていなかったですし、そのつもりもありませんでした。
次の赴任地は岐阜
次の赴任地は岐阜で、当然営業なのですが、ここで担当した得意先は非常に難易度が高く、対応に大変苦慮しました。ただ、忍耐力を学べたことは後のプラスになったと思います。札幌で購入したVAIOを駆使して、売上集計などの業務効率化とスピード化を図ったところ、得意先から「売上は汗と涙の結晶、それを機械などで計算するのは許されない!」と怒られ、こっそりPCで集計した結果を手書きで書き直して報告するという理不尽かつ意味不明な作業も忍耐力を養うトレーニングになりました。
いよいよIT部門へ
社内公募を通じてIT部門へ
2001年3月に社内公募を通じて、本社のIT部門に異動になりました。今だから言えることかもしれませんが、ITへの強い思いがあったわけではなく、何とかして岐阜から脱出し、銀座の本社で働いてみたいというのが本音でした。(当時の採用官の方には申し訳なく思っています・・)最初の勤務地が銀座ではなく、横浜から遠く離れたデータセンターだったのにはがっかりしましたが、翌年には銀座オフィス、その翌年には汐留オフィスに勤務することになり、まずまずの目標は達成できたことになります。
業務内容については、ほぼ全く知らない世界でしたので、覚えることが多く、周囲の先輩たちが使っている言葉の意味を理解するのにも時間がかかりました。しかし、大変さはありましたが、振り返ってみると営業よりも爽やかな気持ちでIT部門としてのキャリアをスタートできたかなと思います
とにかく何でもやる
異動当時は30歳、IT部門では若手だったのですが、全社的な経営改革の真っ只中でIT要員が足らず、そのための社内公募に自ら手を上げて異動してきた手前、「『部門で一番の若手』×『自ら希望して異動してきた』」という構図が出来上がり、その結果として「どんな仕事も断らない(断れない・・)」という悪しき化学反応が当然のごとく発生しました。
経営改革と銘打って、初めて全社員にPCが配布されましたが、PCはあっても、社内システムが追いつかない、特に営業向けの業務支援システムはかなりのニーズがあり、その結果、業務システムの量産化が生まれました。当然、自分は断れない体質でしたので、かなりの数のシステム開発案件を担当することになり、同時に5~6件の新規開発を抱えていたこともありました。
2000年代前半当時のシステム開発
システム開発を担当していた2000年代前半は、業務要件を取りまとめてシステム化する前手の捌きにひたすら時間を使っていました。例えば要件定義前の業務やシステムの整理、総合テストや受け入れテストなど。あとは関連部署間の調整や社内決裁に向けた提案書づくりなどが仕事でした。
当時はコンサルタント等もいなかったので、社内を駆け回って、資料を何度も作り直し、ひたすら手と足を動かしていました。事業会社のIT部門の仕事はベンダーマネジメントとユーザー部門との橋渡しがコア業務で、技術的なシステム開発業務は全てアウトソーシングという風潮でしたし、フルスクラッチ開発が主流で、急速かつ大量の業務システム立ち上げには、このアプローチは間違っていなかったと思います。
転機となった大規模システム開発
IT部門に来て5年目、2006年からこれまで量産してきた販売管理系システムを統合し、大規模BI(Business Intelligence)システムを導入するプロジェクトが立ち上がり、そのPM(Project Management)を担当することになりました。採用したOracle社のBIパッケージとしては日本最大規模となり、稼働後には次バージョンの日本向けテストモデルとして、USのOracle社に情報提供に行ったのですが、それは大規模プロジェクトに当然発生するクリティカルなトラブルやスケジュール遅延、ビジネスユーザーからのクレームなどを一通り経験してからのことでした。
このプロジェクトでは本当にいろいろなことを学び、全ては書ききれませんが、一番大きかったのは、多岐にわたる関連部門のキーメンバーと信頼関係が築けたことだと思っています。今振り返ってみると、これがその後のキャリアに大きな影響を与える良い経験となりました。
全社的な構造改革案件やプロジェクトにアサインされるように
とにかく顔が売れたことと、BIプロジェクトを通じてビジネスの概観が理解でき、ビジネス部門との会話がスムースになったことで、社内初のEコマース開発やリージョン本社制度導入など、会社としての政策的な構造改革案件にIT担当として呼ばれるようになりました。また、それにより更に社内ネットワークが広がり、仕事は忙しくなりましたが、経験値を積むという点では、一気に好循環が促されました。
SIBのIT本部長に
プロジェクトだけでなく、キャリアにおいても管理職となり、部下を持つようになりました。役職が変わっても「断れない体質」は残っており、今度は自分だけでなく、チームのメンバーも巻き込んでしまったことは、申し訳なく思っています。
しかしながら、業務のスタイルやマインドセットは変わらず、相談された業務は全て対応する日々が流れると、自然と視野と視座が変わっていきます。これまでちゃんと理由を聞いてこなかったのですが、ポジションを引き上げてきたポイントは、経験に裏付けられた視野や視座の広さや高さだったのかなと思っています。2021年にITの責任者であるIT本部長という役職に就いたのですが、自分が誰かを引き上げようとする際にはやはり同じ視点で判断しているので、おそらくそうであろうと信じています。
事業会社でITをやること
冒頭で話したように、現在SIBではキャリア採用の方が多く活躍しており、SIerやコンサルティングファーム出身のメンバーも在籍しています。今後、自分のような営業出身のIT担当は割合的に減っていくかもしれませんが、いろいろな価値観・経験を持つ人が相互に協力し合うチームになればよいと考えています。事業会社出身の人はその業務経験やネットワークを、社外でスキルを身につけた人は技術や他社経験などを共有し、SIB内だけでなく、資生堂グループに良い方向の化学反応を起こすようなムーブメントが起きれば面白いと思っています。
最後にお伝えしたいのは、デジタルやITはビジネスを変革するドライバーであり、SIBはそのリード役を担うミッションがありますが、最終的な目的はデジタルやITでなく、ビジネスゴールの達成であることを忘れないようにしないといけません。SIBの活動は、その達成に直接的に寄与できることが最も大きな醍醐味だと思います。
これは事業会社の中のIT部門でないと絶対に経験できません!
ここまでわたしの経験談をお話ししましたが、少しでも興味を持った方は是非SIBへ!
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